いつくしむ 16

京都で、一人の時間を過ごしながら、キョーコは長い時間を一人で過ごした。

台本を覚えるとか、次の日の場面を反芻するとか練習するとか、やるべき事をしている間は何も考えずに済んだ。

けれども、それも終わり、身支度も終わり、しんと静まり返る部屋の中では、テレビを付ける気にもならなかった。

一人になっても、何も変わらないし、東京で下宿している時とそんなに生活は変わらない。それでも、少し違う事がある。誰にも侵されない空間。ものすごく静か、という事だ。しんとした部屋の中で、絵を描き、蓮の写真などを見つめ、共に自分の気持ちを見つめる時間ばかりが続いた。

蓮はまだ来ていない。蓮は行っていいかと尋ねたけれども、一体いつ来るのかは言わなかったから、あれはあの時の雰囲気と流れで言っただけで、実際は来ないのかもしれない。

それでもその言葉を信じてしまう、信じていたい自分もいた。たった数週間の部屋とはいえ、部屋中いつもきれいにしていた。いつ来られてもいいように服もなぜか気を付けてしまう。更には洗濯物も干していたら下着が、とか、そもそも何もないはずでも、可愛い下着を着てしまったり。そんなプライベートの静かな時間にまるで蓮が来るのを待つ彼女のようにふるまう自分の様子を思うと、キョーコは誰もいない空間でむなしい様子で笑った。

社に連絡でもしようかとも考えた。蓮が大阪の仕事をするのはいつだろうか、と。しかし、もう過ぎていたら、来ない事は確定で、素直に待っていた自分に自己嫌悪しそうだった。もし大阪の仕事がまだなら来るのを期待して、その日の前後を待つだろう。それで連絡が無ければやはりどこかで来てくれると言ったその言葉をすっかり信じて期待していた自分がバカみたいで落ち込みそうで、そう思うと、今の仕事へ私情の波が映りそうで、聞くのもやめた。

来るかもしれないし、来ないかもしれない。そして思い直す。自分は蓮の味方だし、信じている。来られるには理由があるし、来られないにも理由がある。もし蓮が来たくないならばそれでいい。他にこちらで会いたい人がいて来られないならば、それでいい、と。

それでも仕事帰りに可愛い下着を買い、可愛らしい部屋着を買い、それから、お茶だけでも出したいと美味しい紅茶を買い、気持ちだけ、まるで恋人を待つような、似非恋愛を楽しんだ。何もない部屋、誰かが寄った時に体と視線の拠り所になるであろうクッションを二つ。それを部屋に置き、可愛らしいパジャマを着る。だんだん恥ずかしく、どんどんむなしくなってくる。

恋人ではないけれど、好きだと言われている、とても好きな人が来る。そう思うとこんなに期待して、こんなに会えるのが楽しみで、こんなに来て欲しいと願ってしまうのだと思った。

好きな人の、行くよ、の一言で、こんなに様々な体験ができるらしい。好きな人がいなければ、このような体験もする事も無かったのだろう。これもまた何かの仕事、役柄への足しになるかもしれないと自分で自分を納得させる日が続いた。

***



ある日朝、撮影場所に入るとハルがいて、「また一緒」と笑った。ハルは監督の依頼で友情出演として数カットのために呼ばれたと言った。

柄の悪い客の役で、それをいなすのがキョーコの仕事の見せどころだった。ハルは、いつくしむとはまた別の勢いと声で、キョーコに面と向かった。たった数分のための出番のためか非常に高い集中力をキョーコにぶつけてきた。

こういうお客さん本当にいる、と、あまりにリアルすぎて、オーケーが出てから、ハルを見てかえって笑ってしまった程だった。今日の撮影が終わり、ハルがキョーコの控室に帰る前に寄った。

「お疲れさまでした、わざわざ顔を出してくださってすみません!」

キョーコは立ち上がってハルに深々と挨拶をした。

「今日のオレ、おかしかった?」

「いえ、本当にそういう人いらっしゃるんですよ、まるで見てきたようだなって思いまして。さすがです」

キョーコは今日のハルを思い出して、おかしくてまたおなかを抱えて笑った。ようやく少し落ち着いてから、おかしすぎて涙が出た目元を擦りながら、くすくす、と、キョーコがまだ楽しそうに笑うのを見て、ハルは、珍しそうな顔をした。

「京子ちゃんて、そんな笑い方できるんだね」

「え?」

笑い方を何か言われるとは思わなくて、何か変な笑い方でもしただろうかと、少し首をかしげてハルを見つめた。

「いつくしむを撮ってるとき、そんな顔をあまり見たことが無いなと思って」

「そうですか?」

「うん。どうしてだろう?このドラマ、楽しい?」

「いえそんなに違いがある訳では」

「そっか?佐保はあまり感情を出さないというか、そもそもいつも下を向いて貼っている、動く絵というか、風景の一人だもんな。でも、うん、この仕事も合っているんだね」

嬉しいようで嬉しくない不思議な気持ちがする。女将が合っているのは、その本物の所作を人よりも見慣れているからだ。

「いや、あのさ。その笑顔を見せられると、あのさ」

と言った所でハルはキョーコの耳に手を寄せて、口元を寄せた。

「この業界だとすぐに口説かれると思うよ」

「へ?」

と、キョーコからは全く信じられないと言いたげな声が漏れた。

「自分に気があるんじゃないかと勘違いする」

「いえ、あの」

「京子ちゃんの気持ちは何となく気づいているんだけど。本当に、この業界、ホラ、あっちもこっちも、仕事してはくっついて、別の仕事しては離れて、の、世界だし。油断しているとすぐに口説かれる。オレみたいにね」

ハルはウインクをして面白そうに笑った。キョーコはハルの背中を両手で押した。ハルは笑って「そういうところとか」と言った。キョーコは先輩の経験とアドバイスの一つとして、頷くに留めた。

ハルはその一瞬の出番だから、一日で東京へ帰ると言った。そして、以前に渡すと言っていたメディアをキョーコに渡した。

「オレも、蓮も出てる」

「え?」

「少し若い頃のだけど」

「もしかして、カイロスのなんとか・・・」

「あれ、知ってた?」

「いえ、敦賀さんに先日、雑誌を見せて頂きました。英嗣さんを制服姿で撮るというので、佐保なら描いていただろうと思って、絵の参考に雑誌をコピーさせて頂いたんです」

「そうなの」

ハルは既にキョーコが知っていたことを知って、少しだけ残念そうな顔をした。

「ハルさん?」

「驚かせたかっただけ。でも、見てね。本音を言わない事が、どんなに人生を狂わせるか、言ったらどんなに違うか・・・架空のドラマだけどね、両方を撮った不思議な作品だったんだけど。オレは若かったけど、とても不思議な体験をした気持ちだったよ」

「そう、ですか・・・」

キョーコがDVDを眺めていると、ハルはまたキョーコの耳元に手を当ててつぶやいた。

「言ってみたら、蓮に」

「え?」

「・・・・違うの?」

「違うと言っても、ハルさんは、そう思っていらっしゃるのだとすれば、肯定をしても否定をしても、仕方がないですよね」

「余計なお世話かな。それを渡そうかなって思ったのも、なんとなくもしかして、と思ったからだったんだけど。まあいいや、次また東京でね。最後までがんばって」

ハルは手を振って部屋を出ていった。

手元に残ったDVDをキョーコは見つめた。

ドアを数度叩く音がした。

「京子さん、おつかれさまです!すみません、監督が呼んでます。来られますか?」

スタッフの一人がキョーコを呼びに来て、扉の外から声をかけた。キョーコは手にしていたそれを慌ててバッグにしまい、立ち上がった。






2019.11.21